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織田信長(1534〜1582)
尾張出身。今川義元をやぶり天下人の道を歩む。1573年足利幕府を滅ぼす。
安土城を築城し、天下統一に邁進が、1582年明智光秀の謀反に合い、非業の最期をとげる。
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濃 姫
名は帰蝶(きちょう)。信長の正室。天文四年(1535)の生まれ。
父は美濃の大名、斎藤道三。母は道三の三度目の妻小見の方(明智氏)。
天文十七年(1548)秋、道三は和を結ぶため、息子竜興の反対を押し切って尾張の織田信秀の子信長に帰蝶を輿入れさせることにした。
この時道三は信長の人物を知りたく民家に隠れ信長を観察する、映画、テレビ等でよく知られる場面である。
婚儀は翌年二月二十四日、帰蝶十四才、信長十五才であったと伝えられる。
濃姫と言われる所以は、帰蝶が美濃国から嫁いで来たので美濃の姫から、濃姫と呼んだという。
信長との間に子があったかどうかは不詳。信長の側室の生駒氏が、信忠を生んだ弘治三年(1557)までに病死したと伝わるが定かでない。
没年を含め生涯はなぞにつつまれている。
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お市の方
お市
織田信長の妹、名は市。小谷の方とも呼ばれる。
はじめ、近江小谷城主・浅井長政に嫁し(政略結婚であったが夫婦仲は非常に円満だったと伝わる)、一男三女をもうけるが、浅井氏滅亡(浅井氏の裏切りを機転をきかしいち早く信長に伝えたとされる)後、男子は浅井の名を継ぐものとして処刑され、娘たちと共に、織田氏のもとに帰り、のち柴田勝家に再嫁する。
1583年(天正11年)4月、羽柴(豊臣)秀吉に攻められ、越前北庄にて勝家と共に自害した。娘3人は逃れ、秀吉に保護された。
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柴田勝家(1522〜1583)
柴田勝義の長男で、尾張国織田氏、信行、信長の臣。林通勝と信長廃嫡、信行擁立を策したが、弘治二年(一五五六)の稲生合戦で敗れ降伏。その後、信行反乱の陰謀を知らせ、信長に仕える。
信長出陣の戦場においては、常に先鋒を務め、退却時には常に殿軍を務めた。
元亀元年(一五七〇)の近江・長光寺城籠城戦では、城中の水瓶を全て打ち砕き鼓舞し勝利したことから「瓶割り柴田」「鬼柴田」と恐れられた。天正三年(一五七五)、越前を平定し、北ノ庄城を与えられる。
このとき総轄の与力は前田利家、佐々成政、不破光治ら。加賀一向一揆を鎮圧し、能登、越中に進出し、上杉景勝と対抗した。
同十年(一五八二)の本能寺の変後、清洲会議にて信長の三男・信孝の擁立をはかるが、羽柴秀吉が推薦する嫡孫三法師(織田秀信)の家督相続が決まり、主導権を握られた。
その後、浅井長政未亡人で信長の妹・お市(小谷の方)を娶る。
同十一年(一五八三)、滝川一益らと共に挙兵、賤ヶ岳合戦で敗北し、北ノ庄城にて小谷の方と共に自害した。
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山内一豊(1546〜1605)
尾張(愛知県)に生まれる。三男。一豊の父、山内盛豊は、尾張国羽栗郡黒田で織田敏信・信安(反織田信長勢力)に仕えていたが信長に攻められ自害。そのため、一時、一豊は流浪し苦渋の日々を送る。その後信長に仕え羽柴秀吉の配下となる。信長の死後も秀吉に仕え、活躍。長浜城主、続いて遠州掛川城主となった。信長閲馬の際、妻の蓄えていたヘソクリで名馬を購入できた逸話など、一豊の妻の才女ぶりは有名。秀吉没後、家康に忠誠を示し慶長5年、関ケ原の戦いでは徳川方に属し、功績によって6万石から土佐24万石を与えられ高知城を築城、1600年山内家初代藩主となった。2代藩主忠義の後、明治の廃藩置県まで土佐山内一族の統治は続いた。
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千 代(1557〜1617)
出自は諸説あり、浅井氏家臣の若宮喜助友興の子とも、群上八幡城主の遠藤盛数の子ともいわれる。
二人が結婚したのは元亀二年(1571)から天正七年(1579)頃とされ、元亀二年(1571)なら一豊27歳、千代15歳ということになる。馴れ初めに関しても詳細不明だが、近江坂田郡宇賀野(滋賀県近江町)で一豊の母・法秀尼に千代が裁縫を習ったことが一豊との縁の始まりで気に入った法秀尼が、一豊の嫁にと勧めたという話も伝わっている。一豊の死後、晩年は禅宗に帰依し京都で余生を送った。 |
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