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| Q.信長まつりのおこりは? |
A.
信長まつりは昭和57年(1982年)。武者パレードも信長まつりの起源と同じくする。(詳しく知る人がいないが、聞き合わせたところ、ほほ同時期のようだ)本能寺文化芸術展は昭和50年(1975年)
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| Q.まつりのコンセプトは? |
A.
信長公の偉業を一般の人々に知ってもらうと共に、本能寺で信長公が好まれた”賑わいの場”を作り出す京都市民の祭りです。
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| Q.祭りの将来&夢は? |
A.
経済、安全面の問題から、相次いでまつりがなくなってゆく中、京都の三大まつりに続く祭りに育てあげたい。
”パレードを大きくして、かつてのように市役所前から多人数で行列を組む”のが本能寺岡本貫首の望み。
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| Q.他の祭りとの違い(特徴)は? |
A.
信長公にゆかりの行事、出し物が工夫されている・・・・信長公法要、武者パレード、明神ばやし、囲碁大会、芸術展、茶会、宝物殿での展示他。
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| Q.今回のまつり運営の意義は? |
A.
11年前から途絶していた武者パレードを復活して再び”賑わいの場”を作り出す。
今回から一般市民や観光客にも行列参加を募集することとした(以前は檀家など、本能寺関係者)。
これによって、来年以降の武者行列パレードの存続と地元住民と一般参加者との交流を深めることになる。
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| Q.毎年いつごろやっているか? |
A.
毎年、信長公の命日(6/2日)にほど近い土・日曜日の時期に行われており、2007年で25回目となります。
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| Q.祭り規模は、去年のまつり参加総人数はどのくらい? |
A.
約7000〜8000人程度。
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| Q.武者パレードいつからやって、止めて何年か? |
A.
古くから武者行列パレードが行われてきました。
しかし、地元住民の高齢化と京都市中心部の人口減少から行列参加者が年々減少し、ついに、10年前から途絶した。
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| Q.パレードの配役は? どんな選定か? |
A.
信長以降の歴史的有名人がパレードを構成している。公募の形をとっている。 |
| Q.パレードの道筋・経路・総人数は? |
A.
毎年正午頃から。本能寺を出発、寺町通り、四条通、三条通りを歩く。
パレードの総人数は約90名強(平安33名、武者・姫20名、その他+ちょうちん・プラカード持ち) |
| Q.越前織田町明神ばやしは? |
A.
織田信長一族発祥の地、そこが福井県織田町です。信長公の祖先は、越前ノ国、織田ノ庄の越前ニノ宮、剣大明神の神宮でした。
このため、信長公は祖先ゆかりの氏神として、剣神社を手厚く保護をしました。
この剣神社に伝わる「明神ばやし」の歴史と伝統は古く、豊年を祝って天地六合に働く者の感謝の心を表しています。
構成は、地太鼓打ち、笛、太鼓打ち、茶利、子どもの太鼓打ちとなり、打ち続ける地太鼓のリズムと笛に合わせて、大人は勇壮豪快、子供は整然華麗に、茶利は「おどけ」の真髄を発揮し三者一体となって宇宙の全てに感謝を表します。
「信長まつり」には、毎年レギュラー出演し、元気いっばいの子どもたちが太鼓を披露します。
「信長まつり」での実演のために、毎年土曜日の夜の学校が終わったその足でバスに乗り込み、車中で昼食をとりながら駆けつけてくれています。(子供12、中学4、大人男6、大人女12、役員4)
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| Q.併設の本能寺文化芸術展とは、どんな関係があるか? |
A.
信長公の遺志を継ぎ、京都の文化、すなわち、"本能寺文化"を広める。
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| Q.囲碁大会はどんな関係があるか? |
A.
本能寺の変"前夜に信長公が本因坊と碁をうっていたという故事にちなんで開催。
碁会の行われる本能寺は、信長が上洛の際は定宿としていた。信長は碁が好きで、時の第一人者・日海上人(初代本因坊算砂)を名人と称し、五子を置いて打ったと伝えられています。
天正10年(1582)6月2日の早朝に大事件が起こるのですが、その前夜に信長は茶会と碁会を催しました。
その碁の中に珍しい三コウができたといわれ、それが謀反を知らせる前兆だったという説もあります。
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| Q.エイサーとは? |
A.
三条大橋東詰にある檀王(だん王)法林寺は袋中上人が開いたお寺。
約400年前、袋中上人は仏教の勉強のため中国に渡ろうとしたが、入国出来ず琉球に渡り、時の尚寧王に帰依を得て、浄土念仏の布教に専念し、庶民の間にわかりやすい念仏踊りを広めた。それがエイサーとして現在発展してきた。
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